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■伝統と革新
いまさらこの記事を糾弾するつもりはけっしてありません。ただ、JRPGにおける「オリエンタリズム」を示す例として、この記事は格好のサンプルだったと思うのです。
同記事内では「誤解しないでください! 我々はJRPGを愛しているのです。もっと良くなってほしいのです。ただ、PS3やXbox 360のゲームが、スーパーファミコンのようなゲームルールに縛られているなら、何かを変えなくては。JRPGが持つ特別な何かを失うことなく、その遺産を守るために10個の改善点を挙げました」と、愛しているがゆえに変わってほしいとする気持ちが綴られています。
さて、ここで四つ目。言葉尻をとらえるようでたいへん申し訳ないのですが、「JRPGを愛しているからもっと良くなってほしい」。これこそがオリエンタリズム的ではないか、ということ。「オリエントに対して適合的だと装ったさまざまの要請・パースペクティヴ・イデオロギー的偏見(『オリエンタリズム』より引用、ここではオリエント=JRPG)」が、ここには見え隠れしていないでしょうか。
伝統的で旧態依然としている東洋文化を、自由と最新技術の西洋文化によって良くしていこう! わたしはついつい、そういう読み方をしてしまうのです(IGN, So Sorry!)。ここには東洋と西洋という二項対立だけでなく、伝統と革新に関わる問題もありそうです。
ちなみに今回の言及は、ゲームの善し悪しとは別の問題です。上記の10項目を改善すれば、ゲームとして良くなる可能性は十二分にあります。記事の投稿から数年が経過し、現に今は上記の10項目をクリアしている作品もあると思います(それが「JRPG」と呼べるものなのかは分かりませんが)。
ここで挙げられた悪い意味での「JRPGらしさ」は、これまでの歴史の中では良いところもたくさんありました。いつでもどこでもセーブできたら、『FF3』のクリスタルタワーは伝説にはなりませんでしたし、見慣れた物語や世界観だからこそ作品に入りやすい、ということもあります。プレイヤーが主人公に感情移入するためには、正義感の強い村の青年である必要もあったかもしれません。マルチプレイの導入も、純粋に物語を楽しむためには邪魔になることもありそうです。一本道のゲーム進行だって、伝えたい物語があったからこそ、ではないでしょうか。
革新的な物語と斬新なキャラクター、リニアでない自由な世界と生き生きとした住人たち。ちょっとしたオンライン要素と魅力的な戦闘システムーー。日本のRPGが「西洋のRPGの模倣」ではなく、良い意味での「JRPGらしさ」を残したまま、(悪い意味でのJRPGらしさといえる)上記の10項目をクリアしながらアップグレードしていく。これは、「世界基準の和製RPG」といったことよりも、はるかに難しいことのように思えてきます。
なぜなら、JRPGらしさとは「西洋から見た“異質さ”」のことであり、その“らしさ”を西洋の模倣ではなく、自らの特性をもって更新していく、つまり異質なまま後進性、不変性、奇矯性といった性質を払拭していくことは、JRPGが、オリエンタリズムの偏りから、真に脱することを意味するからです。