「The Game Awards 2022」および公式サイトにて、12月9日に発表されたPS5向け新作タイトル『DEATH STRANDING 2(仮題)』(以下、『DS2』)。ファン待望の『DEATH STRANDING』続編とあって、同時に公開されたトレイラーが大きな注目を集めています。
小島監督は同アワードにて「トレイラー内にたくさんのヒントが隠されている」ともコメント……。そこで本記事では公開されたトレイラーを分析しました。ぜひ、『DS2』考察の足がかり、そしてリリースへの期待に対する一助としてください。
※本記事は『DEATH STRANDING』のネタバレを含みます。
未来? 過去? それとも時雨? フラジャイルと“子供”を襲う惨劇
PVの冒頭ではフラジャイルのような女性と、天使の羽を背中に背負った子供が登場。幸せそうな育児のさなか、謎の集団から襲撃を受けることになります。多くの人が「この子供はルーかも……」そしてその後の惨劇から「ルーじゃありませんように……」と思ったはずです。
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フラジャイル“のような”と書いた理由は、彼女は「時雨」の影響で顔面以外老化しているはずだからです。それなのに若々しい体であるのは何らかの理由があるからか、フラジャイルではないからか……。年齢の経過で言うなら、フラジャイルと並んで立つサムの白髪も気になります。
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ちなみにこの部屋には「いいね!」 な表紙の本も存在。単なるユーモアか、サムが大陸を繋ぎなおした行動が「いいね!」な表紙として書籍化されているのか、気になるところです。
……その近くにある、空っぽの「BBポッド」でクリプトビオシスが飼われてる様子から、赤ん坊の正体がルーである可能性は高そうですね。
“跳ね橋”は何を意味する……舞台は北米大陸の外へ?
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さらに白髪のサムとフラジャイルが並んで、新たな味方である「APAC」という民間企業に相対するシーンも関心を引きます。黒い液体の中から現れたのはどこか「メタルギア REX」を思わせる船でした。政府ではなく「民間企業」という要素が、舞台の広がりを予感させます。国境を越えて、その名の通りAPAC(アジア太平洋/Asia‐Pacific)に向かうのでしょうか? 少なくとも「APAC」という新しい要素から、未来の話であることが推測されます。
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また、フラジャイルらしき人物が襲撃されているシーンが冒頭に映るということは、脅威となる明確な敵が存在すると取っていいでしょう。現段階では「誰が敵で、誰が味方か」判然としませんが、敵として続投するかもという点で、真っ先に思い浮かぶキャラは「ヒッグス」ですね。
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また、トレイラー内に登場するロゴ「Drawbridge(跳ね橋)」は前作のテーマであった「繋がり」の一時的断絶と考えられます。「BRIDGES」から「DRAWBRIDGE」へ……。脅威から身を守るために「橋を上げる」という意味にも思え、こちらも不穏な雰囲気を醸し出します。
もちろん、前作で語られた「繋がり」を持たなければ人は人でいられないでしょうが、密接に繋がれば繋がるほど、人間社会に「排他」「暴力」というものが生まれてしまうのも確か。「断絶」でも「常に密接」でもない適切な距離を保つ意味で、「跳ね橋」というシンボルが示されているのかもしれません。
葬送の列、信仰の発生?
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続いて気になるのは、マリア像に似た「宗教的シンボル」を掲げた葬儀の列。これは順当に考えれば「アメリ」を信仰しているのでは無いかと捉えられます。
信仰が力を発揮するのは多くの人間が共鳴したとき。PVでは明らかに多くの人間が「葬儀」らしき儀式を行っています。彼らが敵か味方かはわかりませんが、これも「我々は繋ぐべきだったのか」というキーワードに関わるかもしれません。
さて、この点において「ホモ・レリギオースス」という言葉があります。これはミルチャ・エリアーデという人間が提唱した「人類の概念」で、「ホモ・サピエンス」が「考える人間」というのなら「ホモ・レリギオースス」は「信仰する人間」という意味ですね。ミルチャ・エリアーデは、人間とは“信仰をしてしまう”生き物だと言っているわけです。
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月でも、岩でも、信仰の対象となりえるシンボルが存在するなら、そこに自然発生する形で“信仰”が生まれるという理論です。この点を考えると、アメリが信仰の対象となるのは必然と言えるでしょう。
ルー、そしてクリプトビオシスの変化あるいは“変異”。
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本トレイラーで明らかに不穏な要素は、「ルーの変貌」にあるでしょう。蛸の触手らしきものがBBポッドの内側をたたきます。「ルー?」と呼びかけられていることから、BBポッドの中にいるのはルーではないかと思われますが、前作エンディングを見た方はここでも疑問を持つはず……。そしてクリプトビオシスも、なんだかトゲトゲに変異している姿が見受けられます。
もしかすると、シュールレアリスム的な描写、つまり無意識の見せる幻覚のようなものかも知れませんが、現実社会は突然のコロナ禍によって大きな衝撃を受けました。
コロナ禍は、見方によっては「接触することによってウイルスが社会を壊す」という側面もあります。小島監督がそのインスピレーションを作中に発揮しているとなると「突然変異」ということが重大なキーになりえるかもしれません。
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前作はコロナ禍に対する「予言的作品」と呼ばれてしまい、注目を集める形にもなりました。しかしそれでなくても元々社会情勢を大きく揺るがし、人類に大きな問いを投げかけたパンデミック。『DS2』はどのように“リアルな社会”と向き合うのでしょうか。
顔の見えない人間たち、そして「我々は繋ぐべきだったのか」という文章
『DEATH STRANDING』は安部公房著「なわ」に影響を受けています。「なわ」を深く読み解くと親子という「繋がり」や縄と棒の関係性などが浮かび上がってきて「ある意味『DEATH STRANDING』は「なわ」の再解釈だ……!」とも思えます。
ではその点は、『DS2』においてはどう変わっていくのでしょうか。本トレイラーにおいて筆者が感じたのは、「なわ」ではなく安部公房の「他人の顔」「デンドロカカリア」などを中心にしたアイデンティティの問いに近いのではないか? という推測です。
その理由としては、『DS2』正式8発表前の謎めいた「WHO」「WHERE」「WHY」の画像群。サムらの顔が隠されているということは(もちろんシークレット感を出すためでもあるでしょうが)「顔というアイデンティティ」を隠すような印象を受けます。そして本トレイラーのラストの「赤い仮面の人間」も、前者の推測を加速させました。
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「他人の顔」にて安部公房は、人と人との関係性は「自己と他者」ではなく「自己と“顔”と他者」であるとしました。
例えば、「この記事の筆者」の私と「読者」のあなたが実際に会ってコミュニケーションを取るとします。私と会話するために、あなたは「私の顔」に話しかけていることになるでしょう。文字にすると当然のように感じられるかもしれませんが、このようなときに「あなた」は「私の顔」と話をしていて、逆に「私」は「私の顔」という存在を通さなければ、「あなた」と話せないのです。
こういった風に、安部公房は「自分の顔」の価値を重んじました。自己と他者を繋げる役目である「顔(社会的アイデンティティ)」は「自己」と同じくらい立場があり、その顔を喪った場合「自己」はどう変質してしまうのか……という問いを投げかけます。
安部公房の考える「アイデンティティの喪失」は「他人の顔」のみにとどまらず、小説「壁」に収められている「 S・カルマ氏の犯罪」など、初期作品群においても同様です。
また、最後に現れた「赤い人間」について、ネット上では「ヒッグスではないのか」「髪型はアメリ?」と言われています。
しかし彼/彼女の大きな特徴として内臓にあたる部分が「BBポッド」じみていることは見逃せないでしょう。「BBポッドのような人間」であるなら、己をどのように定義できるのでしょう。少なくとも「なんらかのアイデンティティに関わる問題」に直面しているのではないでしょうか。
安部公房の「なわ」は、繋がりと同時に「人間という種が持つ残虐性」を描いています。『DEATH STRANDING』は、(絶望と共に)わずかな希望の橋をかける内容であることは間違いないでしょう。しかし、善と悪には明確な区別はなく……人々は、意見が割れて争いを起こそうとも、自分にとって良い結果に向かい続けるのみです。そういった尊重と悲しみの人間性がある限り、サムが繋げたその「橋」に、新たな絶望が生まれるということは至極当然なことかもしれません。
しかし、絶望が生まれるということは、希望を目指す人間がまた現れるということでもあります。小島監督がコロナ禍という「断絶」に直面した結果、『DS2』では何を語ってくれるのか……大いに期待しましょう。
この考察はあくまで筆者の主観に基づいたもの。各々の考え方の違いによって『DEATH STRANDING』シリーズから受け取れるメッセージが異なるように、本トレイラーから“読み解ける情報”にも差異があるはずです。気になる方は小島監督のTwitterやPodcast「Hideo Kojima presents Brain Structure」などを聞きながら、いずれ訪れる本作の「映像体験」ならぬ「ゲーム体験」に心を躍らせましょう。