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『アサシンクリード ミラージュ』は、初代『アサシンクリード』のゲームプレイをベースにした『リベレーション』以来のイスラム文化圏を舞台にした作品です。実在の歴史に名を残すアサシン教団とは時代はずれるものの、アラムート城砦で修行に励むアサシン達の姿には歴史のロマンを感じられます。
イスラムの文化は日本ではまだまだ馴染みがなく、世界史で習って以来すっかり忘れてしまったという人も少なくないでしょう。物語の中心にいる「カリフ」についてはあまり説明されないので、なんとなく最高権力者だというのは分かりますが、バグダッドの景色を楽しむ上ではもう少し背景を知る必要があります。今回は世界史で教わる範囲でイスラム文化とアッバース朝について見ていきましょう。
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「カリフ」とはイスラム教の創始者ムハンマドの地位を引き継いで、信徒による共同体「ウンマ」を導いていく指導者の称号です。預言者ムハンマドは610年に啓示を受け、政治的なリーダーとして集団を導いていましたが、その死後には信者による選挙で選ばれた「正統カリフ」が後継者になりました。しかしこのカリフに選ばれる条件をどうするか、正当性を巡って争いの種を産んでしまいます。世界史で主に習う範囲では、カリフはムハンマドの血縁でなければならないとする「シーア派」が分派、創始以来の慣行を維持しようとする「スンナ派」と対立、というトピックが挙げられていますね。それ以降様々な解釈で派閥が分かれていく要因となり、現在に至るまで根強い対立が続いています。
3代目の正統カリフが暗殺されると、輩出したウマイヤ家は4代のアリーを疑って独自にカリフを自称、アリー暗殺を含む対立を経て勝利しました。そこから成立したのがウマイヤ朝(661年~750年)で、以降カリフは世襲制に変化します(以降は用語から「正統」が外れます)。
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その後ウマイヤ朝を倒してカリフのポジションを長く握り、イスラム文化を大きく花開かせたのが、本作で舞台となる2代目のイスラム王朝「アッバース朝」(750年~1258年)です。アフリカ北部から中東~中央アジアにまで広い版図を獲得し、東西を交えた交易によって知識と富を一手に支配する、まさに「黄金時代」を築き上げました。人頭税(ジズヤ)を払えば他宗教でも許されていたので(ただし金額や格差の面で不満が集まりやすく、アッバース朝では格差軽減策を採った)、中心部のバザールはペルシャから欧州、アフリカ、ギリシャ、果ては中国まで、さながら坩堝のように異文化が混合する唯一無二の場所でした。
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その最盛期は本作スタートの861年から少し前に遡った、「ハールーン・アッ=ラシード」の治世(在位786年~809年)です。『ミラージュ』の舞台であるバグダッドの円形都市「マディーナ・アッ=サラーム」は、アッバース朝の成立間もない766年に完成しましたが、ハールーンの時代には当時の世界ではごく限られた100万都市を達成。同時代の欧州が如何に荒廃していたかを考えれば、国力の差は一目瞭然です。ハールーンは有名な「千夜一夜物語」にも登場し、イスラム文化を代表する人物の一人だと言えるでしょう。
ハールーンの業績で重要な物の一つが、ギリシャ文献のアラビア語翻訳です。アレクサンドリアを支配していたイスラム勢力には大量の外国語文献が流入していて、それらを活用するためにハールーンは「知恵の宝庫」という機関を設立します。
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過去の回でも何度か紹介した、錬金術に代表されるアラビアの進んだ科学文化の拠点になったのが、他ならぬこの「知恵の宝庫」とそれを引き継いだ「知恵の館」なのです。ここからイスラムの科学は急速に発展し、数学、化学、天文学など旧ローマ帝国の範囲では最先端を誇りました。シチリア、イベリア半島まで進出したイスラム勢力の撤退、十字軍の遠征などで12世紀頃にキリスト教圏との接触が増えるとそこから欧州へ知識が渡り、その後のルネサンスへ繋がる大きな影響を与えました。ゲーム内でも知識の館は訪れられるので、イスラム文化の発信地を是非自分の目で確かめてみましょう。
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ハールーンの死後、カリフの継承を巡って内部対立が起こるなど、最盛を迎えたが故の反動が見え始めます。バシムのいた時代はちょうどゆっくりと衰退していく斜陽期にさしかかっていて、861年のムタワッキル暗殺を契機に、10年間で5人のカリフが殺されるという謀略の時代が始まります。教団の暗躍を描くには格好の背景であり、バシム達がそれらの事件にどう関わってくるのか、それが本作の見所です。現在では痕跡の消え去ったバグダッドの栄華。在りし日の姿をゲームならではの体験で存分に探検してみましょう。