「脚本を書くのも嫌になっていて、図書館で静かに働こうと思ったころの出会いでした」
それにしても、坂元氏はこれまでの実績のある業界から離れ、ビデオゲーム業界に一時的に転向することに恐怖心はなかったのだろうか? このあたりを伺うと、意外な答えが返ってきた。
「僕は19、20歳でドラマの世界に入って、そんなに覚悟もなくてアルバイト気分で始めたことで、元々は好きなことじゃなかったから『もうやりたくない』って逃げ腰だったんですよ」
2023年に紫綬褒章を受賞した坂元氏の実績からすると考えにくいことだが、学生くらいの若者がふらっと関わるくらいの気持ちで臨んだ仕事で厳しい出来事にぶつかり、気持ちが折れてしまう――と考えればありえる話かもしれない。
「職業として選んでなかったし、気軽に選んだものですから。業界に入ってたった6,7年で、トレンディドラマブームの渦中にいましたけど、どこか他人事みたいに存在していたので」
当時の坂元氏はずっと脚本家をやるつもりもなかったという。「脚本家をやっていくと決めたのはもっと後です。ゲームに関わったあと。2003年くらいからですね」
「90年代の当時、もうテレビの仕事はやる気がなくなっていました。でも結婚もしたから遊んでられないし、図書館の司書になれたらな、と思っていたところでの、飯野さんとの出会いだったんです」
坂元氏はあの頃のゲーム業界をこう見ていた。「基本、ゲーム業界に対してはまっさらだったんですよ。自分自身がプレイヤーだったからゲーム業界で仕事できるのは嬉しかったんです」
「ゲーム業界はめちゃめちゃ盛り上がっていましたし。昔トレンディドラマが流行っていたころ、テレビドラマが華やかで注目を浴びていた時と同じものを感じました」
「遊んでる中でちょっと仕事が混ざっている程度なんですよね」
こうして坂元氏が最初に行った仕事は『エネミー・ゼロ』のセリフのリライトだった。
「飯野さんの書いた台本があったんですが、飯野さん自身の要請で、子供っぽいところがあるから、洋画の字幕っぽくしてくれみたいな感じでしたね。『エネミー・ゼロ』の世界感の言葉をもう少しうまく表現できないかということだったと思うんですけど」
続く『風のリグレット』では本格的にシナリオを執筆。坂元氏が培ってきた、脚本の技術を存分に発揮してゆく。「『ラブストーリーを書いてくれ』と言われて、自由に書き始めたんですよね。まず1本のシナリオを書いてくれと言われました」
「『シナハン行こう!』と言われて広島県の尾道に旅行に連れていかれました。大林宣彦監督の映画が好きだったと思うんですけど、尾道を歩きながら、イメージを聞いていきました。ラブストーリーでありながら、ノスタルジックな要素があるという」
かなり飯野氏と密接にシナリオに関わっているわけだが、実際の開発に関しては驚きの話が飛び出した。
「でもね、仕事の依頼を受けてから飯野さんと仲良くなっていったので、仕事してたのなんてほんのわずかな時なんですよ」坂元氏は急にトーンを変えて語る。「そこからは、ほとんど遊んでたっていうかおしゃべりしてて。遊んでる中でちょっと仕事が混ざっている程度なんですよね」
30代以上のゲームファンなら知っている方が多いと思うが、『エネミー・ゼロ』はもともとプレイステーションからライバルであるセガサターンへプラットフォーム変更を行ったタイトルである。しかも、それをソニーのイベント中に発表したことで業界を揺るがしていた。
「エキスポのあとはとにかくいろいろ変わったよね、とくに心境がね。戦う顔になったというかね」(※2)飯野氏も当時をそう語っているくらいなので、火花が散りつづけるかのような苛烈なプロジェクトという印象を持つ方も多いだろう。
ところが、坂元氏から見た飯野氏は違う側面があったようだ。「飯野さんは基本的に仕事と遊びの切り替えスイッチがなかったんですよ。ちょっとセリフ直して、戻したら遊ぶ時間が続くので、やりたくないことに向き合ったりしなかったんですよ」
「一緒にいていつも楽しかった。でも、僕ら、遊んでたのか? 仕事してたのか?どっちなの?ってすごく難しいバランスがあって、飯野さんを思う時、いちばん大きいところですね。これが仕事に偏っていたら、もっと違うものを作っていた気もするし、やりたくないことをやっていたら飯野さん的な作品は残せなかったかもしれないし。その難しいバランスに僕自身が何も力添え出来なかった後悔がずっとあります」
当時の飯野氏はゲーム開発に加え、多数の雑誌連載やインタビューの他、メディア出演など多忙を極めていた。「ハッキリ言って一日3時間以上寝たコトないんですよ。しかも寝るのは会社の椅子の上か床」(※3)そう書籍などで語られているが……。
「でもね、あれはポーズですよ」坂元氏はばっさり返す。「仲が良かったから言いますけど、寝てはいないと思うけど、20代で寝ないなんてみんなしてることで……」
「僕もわかるけど、寝てないしパソコンには向かっているけど、何も残らない日がたくさんあるわけですよ。気が散ってるんですよね。これも出来る、あれも出来るって、色んなことに思考が飛び交って、100考えてても、書いたものは1みたいな。それは作品の深みになるけど、諸刃の剣ですよね。飯野さんの頭の中はずっと生き急ぐように動いてたけど、手はあんまり動いてないんじゃないのって思ってました」
「言葉だけ聞いて、悪く取られちゃうと悲しいですけど、飯野さんってそんなにゲーム作りに集中してなかったと思うんです。彼は自分にあらゆる可能性を感じてて、実際何でも出来る人だったから、どんどん世界が広がって、ゲームが占める割合は小さくなってたんじゃないかな」
“風雲児が、気鋭の脚本家と新しい体験のゲームを生み出す”そんなイメージとあまりにかけ離れた話がつぎつぎと出てくる。「全然ね、強面とかじゃなかったんですよ。彼は会う人みんなから愛される純粋な子供だったんですよね。子供だからやらなきゃいけないことなんてやりたくないものですよね。いつもやりたいことをやってたし、彼がやりたくないことを無理矢理やらせる人なんていなかった。誰からも命令されないで、自由に生きてた。それはとても美しいことだったんですけど、職人にはならなかった」
なにせ極めつけはこうだ。「基本、夜中の1時とか2時に飯野さんから『いまから会社に来ない?』って電話がかかってきて、それから朝までおしゃべりするのが僕の役割だったんですよ」
もはやシナリオ制作への協力はどうしたんだ? という話だが、坂元氏はWARPから社員名刺も発行され、「びっくりするくらいのお給料」をもらっていたという。坂元氏は飯野氏のお話の聞き役としても過ごしてゆく。
ふたりでの活動はそれだけではない。あの伝説のサウンドノベルとニアミスもしていた。
「『風のリグレット』が出た時、ちょうど『街』が同時発表され、ライバルみたいに言われていたことがあったんですよ。そこで飯野さんが『坂元さん! 向こうの会見観に行こうよ!』って、発表会の最前列でにやにやしながら見てるという。ものすごく感じの悪い2人組をやっていたんですけど……(笑)。発表している中村光一さんも、目の前に飯野賢治がいて気分が悪かったんじゃないかって思います(笑)」
「いくらでもゲームのアイディアは出てきた。でも、どれも残らなかった」
おしゃべりしながらもWARPでは映画的だったり、音声だけのゲームだったりと挑戦的な物語表現のゲームの開発は進んでいた。いずれも当時のゲームシーンからは異質のゲームだ。あの頃の飯野氏の発言を振り返ると、シーンに蔓延していた任天堂的な価値基準を仮想敵にしてゲーム作りをしていたことが窺える。
たとえば飯野氏は宮本茂氏と対談したとき、直接こう言った。「任天堂さんがつくったゲームの世界というのが、今のゲームの基準点になっている」、「任天堂の宮本さんがつくったらいいだろうなというものを一生懸命頑張ってもしょうがない」
当時の多くのメーカーの作るゲームも、彼はこんな風に見ていた。「『スーパーマリオクラブ』(※当時存在した任天堂のゲーム評価部門)の点数が高く取れるゲームばかりを一生懸命頑張ってつくっているような気がします」
「ソニーにしてもセガにしてもゲームマシーンだったら全然違う物をつくった方がいいと思うんですよね」(※4)そう強くオルタナティブな立場を示す発言が見受けられる。
「あれは愛憎ですよね」坂元氏はそう評する。「父殺しですよね。一番、宮本さんをリスペクトしていたのも間違いない」
「飯野さんは『スーパーマリオ64』をすぐクリアしてたけど、表で批判的なことを言っていたのは、自分が新しい世代の人間だから戦わなきゃいけないと思ってたんでしょう。それは飯野さんの反射神経であって、それがなかったらものを生み出すことはできなかったと思います」
飯野氏が反骨精神を見せ続けていた一方、坂元氏はWARPから家に帰ると、そんな方向とはぜんぜん違うゲームばかり遊んでいたりした。
「当時のゲーム業界は映画的なものを目指していたんですけど、僕自身は任天堂の宮本茂さんのものが大好きでした。飯野さんと仲良くしつつも、家では宮本茂さんのゲームをやってました」
坂元氏が飯野氏と関わる日々を語る中、ふと飯野氏のゲームクリエイターとしての資質を考えさせる話も出てきた。
「まあ本当に話が面白くて、ゲームのデザインや仕様のアイディアも次から次へとでてくるんですよ」坂元氏は淡々と語りながら、ひとつの不満も漏らす「それをゲームにすればいいのに、というのがいっぱい出てくるんです、だけど喋って満足してるとこがあって」
飯野氏と坂元氏がおしゃべりするなかで、いくらでも企画は出てきた。でもそれらは実際に企画書に残さなかった。「僕が書記でもすればよかったし、誰か彼の代わりに具現化する人間がいればよかったんだけど」
「たまにゲームの仕様もメモ書きしていたけど、適当にしゃべっていたときのほうが遥かに熱量が大きかった。そのあたりが仕事として機能しなかったのは、飯野賢治最高!と思うし、作品として残して欲しかったなとも思います。彼は自分をプロデューサーだと思ってただろうから、そんな役割の人を近づけなかったけど、本来は圧倒的にクリエイターだったはずなんです」