「300万本売れるRPGのキャラクターデザイン、ジブリにお願いしようか?」
今回、坂元氏に伺っておきたかったのが、やはり飯野氏によって企画のみが語られていた『300万本RPG(仮)』が実際どのように進んでいたかだ。これはファンでも実態が長らくわからなかったものだろう。
「俺、最高のRPGを、ロールプレイング・ゲームをつくりたいんだ」飯野氏はこの企画に強い思い入れを持っていた。「今度は命をかけた勝負になる。そのRPG、僕の二十代の最後の年である二十九歳に出るんだ。僕は一九七〇年生まれだから、一九九九年の夏に二十九歳になる」、「そのために坂元裕二が生きている。あの『リアルサウンド』は伏線なんだ」(※5)
「『風のリグレット』が終わって、『D2』の班があって、『300万本RPG』の企画チームは作られていたんです」坂元氏は振り返る。「僕が『300万RPG』の脚本を飯野さんと共に練る係として、ずっと一緒に動いていました」
「王道のものをやろうとしていましたね」ここで飯野氏らしいというか、ある意味で10年早い案があったことも語られた。
「キャラクターデザインをスタジオジブリにお願いしようかとか、そういう話もしていましたね」なんとレベルファイブが2010年に『二ノ国 漆黒の魔導士』で実現したことを、90年代にやろうとしていたのである。
もちろん、1998年にリリースされた『玉繭物語』が元ジブリのスタッフである近藤勝也氏をキャラデザインに起用していたことなど、似たことを考えたクリエイターは少なくなかったと思う。とはいえ飯野氏らしい戦略を感じさせる話だ。
しかしダークなホラーやSFのイメージの強い飯野作品が、なぜそこまで真逆の方向を目指したのか?
「カウンター的なものから脱したかったんでしょうね。その頃ね。『300万本RPG』って名付けているくらいだから、王道をやるんだって思いでいたんでしょうね」シナリオもそんな方向だった。「『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』に対抗する意思で始めましたね」
90年代は二大RPGの趨勢になんとか切りこもうと、数々のメーカーやクリエイターが挑戦してきた。飯野氏も例に漏れず、その一人だったということになる。
ただどのくらい企画を煮詰めていたのかは、残された書籍や坂元氏のお話を聞くだけだとはっきりしない。「飯野さんが出してくるタイトルが『ドドドドラゴン』って(笑)。それが内部の仮タイトルだったりしたんですけどね」
「当時の物語設定はぜんぜん覚えてないですけど、たぶん中世ファンタジーの話だったと思いますよ。お城があって、騎士がいて、ドラゴンがいてというのを作ろうとしていました」
正直、軽い構想を聞く限りだと当時からしても何歩も遅れた構想のように思える。すでに90年代末期に『ファイナルファンタジー』シリーズはサイバーパンクやスチームパンクに進んでいたし、『ドラゴンクエスト』シリーズだって厳密には中世ファンタジーを表現する方向とは別だった。両作は源流にあった欧米RPGの中世ファンタジーから遥かに別の進歩を遂げており、単に中世ファンタジーを目指すだけで切り込めるものではなくなっていた。
飯野氏が見えない敵とのサバイバルや音だけのゲームを作っていたことを思うと、ありきたりな「王道」を目指したことは逆に考えさせられる。もしかしたら彼の実像を考えるきっかけになるかもしれない。
「飯野さんは王道がやりたい人だったんです」
さらに坂元氏からお話をうかがうなか、飯野氏のクリエイターの資質について再考させる話題になった。そこでは「もしかしたら、飯野氏は奇策や反骨精神からクリエイティブする人間とは違うのかもしれない」という姿すら浮かび上がってくる。
「やっぱり飯野さん自身は宮本茂さんが大好きだったと思う。映画的な『Dの食卓』で世に出てきたけど、映画的なゲームみたいなことにはそんなに興味なかったんじゃないかな」坂元氏はそう評する。
「ゲームの仕様を考えるのが大好きでしたから。作品として結実していかなかったけど、真夜中に話しているとゲームの仕掛けやアイディアを次から次へと挙げるわけです。本当に楽しそうで。こんなにアイディアがあるなら、『スーパーマリオ64』みたいなゲームが作れるじゃんと思って」
坂元氏はさらに本質を突くような指摘をする。「僕はプロじゃないから分からないですけど、飯野さんはいつもゲームの仕様の話をしてたんですよ。ゲームで物語を作るより、よっぽどそっちのほうに才能を持っていた人だったと思う」
そうなのだ。飯野氏が2000年代にWARPから社名をフロムイエロートゥオレンジ(以下、fyto)に変え、ゲーム業界から10年ほど離れ、復帰して開発したゲームを思い出すと。いずれも映画的でも物語的でもないゲームだった。iOS7でリリースされた『newtonica』や『one-dot enemies』、そしてWiiウェアでリリースされた『きみとぼくと立体。』……いずれも触る楽しみ自体が大きいタイトルだ。
「もともと飯野さんはファミコン時代『わんぱくコックンのグルメワールド』など、普通に伝統的なアクションゲームを作っていたじゃないですか。そういうのが飯野さんのなかに根強くある」
飯野氏は『きみとぼくと立体。』をリリースした2009年当時、ゲーム業界から距離を取ったことをこう語っている。「外野でいる気持ちは大事だなと思いましたね。ここで2、3本作っちゃうと内野の気持ちになってしまうので、それは常に気をつけないといけないなと思いますね」
「過去を振り返ったり反省したりするのは好きじゃないですが、10年前を反省するとしたらすごく内側にいっちゃった気がして、外側としての気持ちのこんなゲームがあったら面白いな、遊んでみたいなというものも持ち合わせていたはずですが、当時の最後はすごく内側にいってしまった気がしますね」
(引用: GameWatch「Wiiウェア「きみとぼくと立体。」 フロムイエロートゥオレンジ 飯野賢治氏インタビュー」より)
「最後はすごく内側にいってしまった」――もしかしたら、『エネミー・ゼロ』や『風のリグレット』で反骨のアプローチを見せていたが、当時のゲーム業界内で強く存在感を出すためにある部分で無理をしていたのかもしれない。
考えてみれば「300万本RPG」も当時のゲーム業界でRPGがセールスや物語表現でトップのジャンルだったから、企画の発端も「ゲーム業界の内側」に入り込んだなかでの要請だったのではないか。真夜中のWARPで、坂元氏に語ったゲームのアイディアこそが「外側としての気持ちのこんなゲームがあったら面白い」ものだったのだろうか。
「飯野さんはぜんぜんサブカルチャー志向じゃないですよ。王道がやりたい人だったんです」