
■ JRPGと「オリエンタリズム」
こうしてRPGは、他のジャンル以上に「西洋」と「日本」という区分けを残したまま今日まで来ました。日本のRPGは、その全体を見られることのないまま、常に「異質な」ものとして捉えられてきたのです。日本でも「剣と魔法」といったファンタジーをベースとする点で、共通項がないわけではありませんが、日本ならではのライトファンタジー的なデザインやキャラクター、RPGとしてのゲーム性においてその差異を見いだしてきました。
2000年代中盤、ゲームハードは第7世代(Xbox 360、PlayStation 3、Wii)に突入。この世代で、海外のRPGは、数々の賞を獲得した『The Elder Scrolls IV: Oblivion』をその象徴として、「リアル感(リアルレンダで美しいグラフィック)」や「自由さ(広大なオープンワールド)」といった特徴をアピールすることに成功しました。RPGには様々な形がある中で、西洋のRPGにおいて、それはひとつのアイデンティティとなりえたのです。
さて、ここで導きたい言葉が「オリエンタリズム」です。まず、アメリカの批評家であるエドワード・W・サイードの著書からその言葉の説明を引用してみましょう。
- オリエンタリズムとは、オリエントに対して適合的だと装ったさまざまの要請・パースペクティヴ・イデオロギー的偏見によって支配されるものとしての、規則化された(つまりオリエント化された)作品・ヴィジョン・研究の一様式であるとみなすことができる。
ーエドワード・W・サイード『オリエンタリズム』板垣雄三・杉田英明監修 今沢紀子訳(平凡社) 第三章 今日のオリエンタリズム
古くは「東方趣味」「東洋志向」といった異文化への興味を指すものだった「オリエンタリズム」は、サイードによって西洋の東洋に対する思考様式として定義されました。西洋に比べ、東洋が異質で劣ったものだとする見方を批判する内容になっています。
もうひとつ、同著に併記されている杉田氏の解説から引用したいと思います。
- オリエンタリズムの思考様式、言説空間の下では、つねに西洋と東洋の厳格な二項対立が機能し、西洋とは対比的に、東洋には後進性、奇矯性、官能性、不変性、受動性、被浸透性などの性質が割り当てられた。
ー同著 杉田英明『オリエンタリズム』と私たち
ここでもう一度「JRPG」です。
2000年代以降西洋のRPGがハードとともに進化し、自らの特質を獲得していく中で、その対比として「異質な」日本のRPGは、“RPG”全体ではなくその一部をもって類型化され、「後進性」「不変性」といった性質を持って語られるようになったーーそれが、上記のような「JRPG批判」だったのではないでしょうか。リアルや自由といった欧米RPGの特徴に対し、日本のRPGはいつまでも形式的で不自由、といった性質を負わされたのです。
言葉の歴史性において、サイードの示すオリエンタリズムと「JRPGにおけるオリエンタリズム」が一致するわけではありませんが、近いものがある気がするのです。「会話で選択肢が出てきても結局同じ結果になる」「物語が一本道でプレイヤーの介入がない」といった日本のRPGの特徴は時代遅れである、とするのは、西洋のRPGが獲得した「自由」こそRPGにおいて優れたものだ、という認識があるからではないでしょうか。
これはゲーム全体の自由度だけではなく、グラフィックやバトルシステムといった項目にも及びます。グラフィックに現実感があって戦闘がシームレスな作品が、グラフィックが非現実的で戦闘がターンベースな作品より“RPGとして”優れている、というのは実はひとつの見方にすぎません。
問題は「JRPG」が、(日本のRPG全体ではなく)オリエンタリズム的なパターン化を経た上で指し示された集合体であるにも関わらず、「JRPG=日本のRPG」という誤った認識を生じさせる、ということです。西洋のRPGとの二項対立でマイナスイメージを付与され、最終的に日本のRPGは後進的である、といった結論に陥る可能性はないでしょうか。




