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「いいですか、どうか、落ち着いて。第三次世界大戦が始まりました」
もし自分が9年間昏睡し、目覚めたばかりだったなら信じられなかったに違いない。
しかし現実は2014年にクリミア半島、そして今、首都キエフを目指してロシア軍が攻め込んでいる。今だったら本当に大戦の始まりを信じてしまうかもしれない。
「戦争は変わらなかった」
オールド・スネークがいたら、そう言ったかもしれない。国家や思想のため、利益や民族のため、人々は今も争いを続けている。
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情報、物流、経済、電子、世界がネットワークで繋がっているこの時代に、全てを断ち切ってまでロシアがウクライナに侵攻するなどと、一体誰が信じられるでしょう。プロパガンダとフェイクニュースが横行する社会なら、戦争自体が画面の向こうで作り上げられたカバーストーリーかもしれない、むしろそう信じたいくらい、私達の世界は一瞬で時計の針を巻き戻しました。
私はその戦争について語るだけの見識は持ち合わせていません。ですから、ここでは口を噤みます。その代わりとして、今世界で起きている「言葉への憎しみ」について、『メタルギアソリッドV』(以下、MGSV)のヴィラン「スカルフェイス」と、憎悪の発火点「コードトーカー」を起点に考察を試みます。『MGSV』で描かれた出来事を、私達はもう一度読み返すべきではないか、そう思えてならないのです。
言葉が変われば、私も変わった。性格、ものの考え、善と悪。言葉は人を――殺す。
スカルフェイスは幼い頃に体験した言語の強制によって母語を喪失し、世界を征服しようとする「英語への復讐」を画策しました。母語という自我を見失った自分は、「報復心」だけが残る髑髏の亡霊、そう称して。スカルフェイスが言う「言葉によって人格が変わる」というのは、聞いただけでは理解しがたいでしょうが、他言語学習者であれば少なからず身に覚えがあると思います。
この「人格変化」を私も先日体験しました。こんなご時世ですので、いわゆるレスバに巻き込まれることも増えてきましたが、そんな中私は英語でのレスバトルをすることになりました。すると、普段は慎重に言葉を選んでいるのに、このときはより過激に相手へ言葉をぶつけるようになっていきました。まさに人格が言葉によって変えられ、自分でもひどく驚きました。
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私の文章は「~でない」「~でなくてはならない」など否定や二重否定を頻繁に使う癖があります。思考の傾向として、まず可能性の広がりを潰していってから、押しつけないよう芯の部分の提案を出す。そういう慎重な論の組み立てをしています。
ところがこれを英語に訳そうとすると、二重否定を肯定文に直す必要があります。例えば「私は~しないとも限らない」をそのまま英訳すると「I am not sure I don't ~.」となり、回りくどい文になってしまいますね。ですから裏を取って「私はたまに~することもある」から「I ~occasionally.」とします。ですが、日本語で「私は~しないとも限らない」と「私はたまに~することもある」ではニュアンスが違いますし、最初の言いたいことを完全に英語に移せてはいません。
英語を主体に思考した結果、私の二重否定の癖は封じられてしまった、つまり「矯正」が起きました。二重否定の慎重さが失われて、より断定的に、いわばブレーキとアクセルを逆に踏んでいる状態で思考するようになっていました。
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言葉を発するとき、単語を流暢につなげて文章にするには、直前の言葉を言おうとした時点で、既に次に出す単語を経験則から絞り込んでいます。それは極めて瞬発的な働きなので、各言語の文法構造によって、既に思考の流れにある程度制限が加わっていると言えるでしょう。そして、言語はそれを母語とする民族の居住地や習慣、社会制度、宗教などに最適化、言わば「ミームの自然選択」によってローカライズされており、ローマ帝国のラテン語も西欧諸国の言語に分化しました。思考言語が変われば、思考そのものも「違う民族」として新たに生まれ変わります。
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逆に言えば、言葉の教育は最も簡単な洗脳であり、文化的征服の最初の一歩です。教える人間が住む社会に都合が良くなるよう、思考を矯正していく作業です。教える人間が恣意的に思想統制を行うなら、「1984年」のニュースピークのように、体制の都合の悪い言葉を禁じ、改変していけば、思考の中に上がってくることすら無くなります。「戦争」「2単語」の言葉を抹消すれば、戦いは一方的な「侵攻」では無い「特別軍事作戦」になります。検閲を強化すれば「全滅」「壊滅」は「玉砕」に上書きされます。「狼」という言葉を使わせない限り、D-DOGも、ダイヤモンドドッグスも「犬」であり続けるのです。
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日本では「標準語」という言葉が支配しています。近代化を推し進める政府は、江戸時代まで各藩で醸成された言葉を、「東京ニ於テ専ラ教育アル人々ノ間ニ行ハルル口語」に統一しました。それにはもちろん琉球、アイヌの同化政策も含まれます。
幕末の大河ドラマを見ていても、新政府の中では薩摩言葉と長州弁で強固な派閥の壁ができていますね。同じ志があるとは言っても、使う言葉は何かにつけて、育った環境の違いや持っている利害関係を意識させてしまうものです。戦争後に各地から集めた人材を一致団結させるために、政府は様々な「○○藩の出」の人々へ一つの「同じ日本人」というアイデンティティを与えました。細かいことを言えば訛りで分かるでしょうけど、少なくとも会話の上では誰もが同じ「教育ある日本人」でいられます。