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人は、国に住むのではない。『国語』に住むのだ。『国語』こそが、我々の『祖国』だ。
『MGSV』の冒頭で引用されるルーマニアの思想家、エミール・シオランの言葉です。彼は支配者が移り変わるトランシルヴァニアからパリに出た後は、アイデンティティを失った「形而上的無国籍者」を自称し、母語を捨て去ることを決意しました。彼はこの文言についてこうも語っています。
私は無国籍者の身分を選びましたが、そういう私にとって、言葉はもやい綱、土台、確実性です。人というのは国籍ではなく、言葉です。言葉を除けばすべては抽象と化し、非現実と化します。ですから、おっしゃる通り、言葉は祖国、そして私は国籍を失いました。
使う言語の選択こそが個人の帰属する場所を定義する。MGSVで描かれたこの「繋がり」は、『DEATH STRANDING』にも通じるものがあります。
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言葉を受け入れることは、その言語の発信元である民族の文化や情報を享受する能力を持つということです。ローマ帝国が広大な領土を維持できたのも、征服した各地でラテン語を普及させたからです。言葉が通じなければ、中央から人材を地方に派遣してもその能力を生かし切れません。逆にその言語がある土地になら、人間はその言語で得た教養や知識、文化をどこにでも持って行けるのです。楽器を持ち歩けないピアニストが、ピアノのある会場でしか演奏できないという関係に似ています。
しかし、それは土地によって育まれた文化に違うものが流入し、分離でしか保てないものを失う危険性も孕んでいます。特に宗教的感覚などは言語の習得程度でも簡単に影響を受けてしまうでしょう。宗教を重んじる民族は日常の隅々に神の恩恵を感じる語句を持っており、言語が変われば神の存在は色褪せ、いずれ教義を脅かされるかもしれません。それを防ぐため他言語を一切禁じることにも理はあります。
侵略者にしてみれば、武力制圧して民族の言語を奪い去ってしまえば、それだけでその土地の宗教は完全に消し去れます。母語を失った民族は「支配国の一員」として生きていくことを余儀なくされるのです。それでも、土地や習慣を奪われてもその身一つで継承していけるのもまた言語であり、どのような圧政の中でも、言語とそれに付随するコンテクストを継承することこそ、民族のアイデンティティを保つ数少ない手段。支配しようとする側も、それに抗う側も、最初に言葉があり、最後に言葉が残るのです。
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スカルフェイスは自分の母語さえも奪われ、戦乱のたびに繰り返される「洗脳」に晒されたために、寄る辺の無い漂泊を余儀なくされました。かつて抱いていた自身の思考にさえアクセスできず、言語障害を負ったヴェノム・スネーク、英語の声帯虫を抱えたクワイエットと同じように、スカルフェイスもまた自分自身を語る言葉を失った1人でした。
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ネイティブアメリカンのナバホ族であるコードトーカーも、19世紀に行われた強制移住政策によってアメリカへの同化を迫られました。アメリカは戦時中にネイティブアメリカンを暗号兵として利用、神聖な彼らの言葉は「戦争の道具」にされます。
言語の中には、それが生まれた土地でしか機能しない言葉がたくさんあります。例えば、北海道弁の「しばれる」とは、単純な強い寒さだけを表すのではありません。放射冷却で極度に冷え切った日、手足がしもやけで痛さを感じるくらいの寒さ、そういう共通認識が「しばれる」の一言に集約されます。
仮に北海道民を全員沖縄の方に移住させて、一世代が経過したら「しばれる」のコンテクストは失われ、使用頻度は大きく下がるでしょう。更に時間が経過していき、実際に体験した人がいなくなれば「しばれる」は「死語」になります。一度「死んだ」言葉を後からどれだけ解読しようとも、1単語の中に含まれる膨大なコンテクスト、土地に根ざした感覚は二度と取り戻すことはできません。
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開拓によって居住地を奪われたネイティブアメリカンの言語は、そういった言葉の大半を失ってしまいました。コードトーカーにはそれが「言葉の大虐殺」に映ったのでしょう。彼の民族、文化を奪ったアメリカを憎み、その全てが詰まった「英語」への復讐を誓った。英語は世界の全ての言語に対する侵略者であり、絶対的な悪である、そう考えました。
事実として、ウクライナは長年にわたる周辺国の侵攻やロシアの支配によってウクライナの言葉を幾度も禁止されてきました。実質的に自由になったのはまさに独立を勝ち取った1991年、僅か30年前のことなのです。独立後の世代が成長してウクライナ語の普及は進みましたが、それまでに募らせた「ロシア語への報復心」はそう簡単には収まらないでしょう。「報復心」は大げさですが、ロシア語の公用語を廃止、国内におけるウクライナ語以外の広告を禁止、出版物の言語比率の規定など、ウクライナ語推進に力を注いでいるのは事実です。
長い間奪われてきたアイデンティティを取り戻したい、その気持ちは想像するに難くありません。民族的近さと工作員への警戒もあり、ロシア語話者への敵愾心を持つ人は少なくないでしょう。もちろんロシアとの友好を望む人もいますし、さらにウクライナ語とロシア語が混ざった「スルジク」というのもあります。国外にいる私達にはその実情を肌で感じることは難しく、ウクライナ内の空気や流れまでの言及は私にはできません。
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戦争が始まって以来、ウクライナが呼びかける対ロシア包囲網によって、ロシアに関わるあらゆるものの使用が「敵性視」され始めています。言葉もまたロシア語表記をウクライナ語表記へ変えようとする動きが出て、かつて日本で起きた「敵性語」の排除、まさしく「言語への報復心」が世界に撒かれつつあります。
係争中の領土の呼称は、どう呼ぶかによって政治的立場を選ばざるを得ないもので、現在の「キーウ(キイフ)」「キエフ」論争も、ウクライナとロシアのどちらに付くかの踏み絵になっています。確かにセンシティブな時期に外交上の差障りを可能な限り減らそうという理もありますが、こういった地名の呼称もまた、日本の歴史のコンテクストを含んでいることを忘れてはなりません。
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日本とロシアの繋がりは数世紀の長きにわたり続いてきました。非公式では日本の漂流民がロシア側の記録に早くから残り、薩摩から漂着した「ゴンザ」の薩摩弁をベースにロシア発の露日辞書「新スラブ・日本語辞典」が制作されました。正式な外交上では、1789年に使節アダム・ラクスマンが遭難した日本人(大黒屋光太夫ら)を連れ帰り、幕府に通商開始を求めたことが最初です。それ以降東欧の情報はロシアの窓口を経由して日本にも流入し、イクラ、セイウチ、カチューシャをはじめとする多くの借用語が定着しました。革命ロシア以降は政治の語彙が多く、いきなり排除することはとても難しいでしょう。
借用語の用例を遡れば、その言葉が流入した背景、時代の動きも読み取れます。UK(英国)を表す「イギリス」は語源を更に遡ればイングランドなのですが、だからといって日本がユニオニスト(主に北アイルランドなどで、イギリスとの統一・連合に止まるよう主張する立場)を表すのでは無く、ポルトガル語の「イングレス」、オランダ語の「エングレス」を元に地域全体を指す呼称として定着したものです。この一語だけでも、大航海時代の諸外国に日本がどう接したかが分かります。
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スコットランドやアイルランドの独立運動が高まり、日本がユニオニストかと問われたとき、それらに配慮して「イギリス」という呼称を変えることはできるでしょうか?一時的に変えたとしていつ戻すのでしょうか?そしてそれは、日本外交史の一節を書き換えることにはならないでしょうか。
同様に、日本に於ける「キエフ」の呼称は帝政ロシア時代から良くも悪くも続く日ロ外交の歴史を表すものであり、「言語への報復心」で簡単に変えて良いものなのでしょうか。政治的駆け引きからそうせざるを得ない、と言うのであれば、私はそれに異論は唱えません。ですが、決断の前に日本とロシアの外交史について、少しの間だけでも考えるべきだと思います。
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言語への憎しみは、国へ、文化へ、人へと向けられ、危険分子の「駆除」を平然と行うまで人を駆り立て、世界を再び終わりなき「報復の連鎖」へと突き落とすでしょう。声帯虫に侵され、仲間同士殺し合ったダイヤモンドドッグスのように。
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この戦争によって世界中の領土問題、民族独立問題、まさに「幻肢痛」が呼び起こされました。だれもが奪われたものを取り戻そうと動き始め、言葉を巡る戦いが繰り広げられています。ゲームの中でさえ「核廃絶」は一時の偽りに終わり、発売から7年たった現在も未だに達成されていません。
「報復の連鎖」を止めるために私達は何を憎み、何を憎むべきでないのか。それを見極めるときには、ヴェノム・スネークになってあなたが感じた「痛み」がきっと役に立つはずです。
「お父さんはな、るいの名前に夢を託したんじゃ。どこの国とも自由に行き来できる、そげえな世界を生きて欲しい」
――NHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」より
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※ UPDATE(2022/03/21 00:52):当初ウクライナの首都の件で「キーフ」と表記していましたが、日本政府の有識者会議で示されているとおり、「キーウ(キイフ)」と表記するよう改めました。コメント欄でのご指摘ありがとうございました。
※ UPDATE(2022/03/21 13:56):小島秀夫氏の指摘により、「スカルフェイスのモデル」の記述を削除いたしました。謹んでお詫び申し上げます。お読みくださり誠にありがとうございました。