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■モラトリアムの延長とタナトスの失効
演出重視の語りが爛熟していくなかで「モラトリアム期間」はできました。RPGにおいてプレイヤーは、タナトスとモラトリアムの狭間で、「終わらせたい、けど終わらせたくない」というアンビバレンツを抱えてプレイしていくことになっていきました。
サイドメニューが充実していくほどに、モラトリアム期間は延長されていきます。主人公として物語を終わらせるという責任を遂行することなく、だらだらと過ぎていく時間。いつまでも待ってくれているラスボスは、強くなりすぎた主人公にあっけなく倒され、クライマックスを迎える感動の演出とは裏腹に、プレイヤーは手応えを得ることなく物語を終わらせてしまう……。
長過ぎるモラトリアム期間は、物語と主人公の間にギャップをもたらし、結果として「終わらせる」行為の心地よさを逓減させていったのです。
さらに厄介なのが、モラトリアム期間において、プレイヤーがしばしばゲーム世界のルールを上回る力を得ることです。例えば「世界を崩壊させるラスボス…よりも強い隠しボス」「限界突破という名のルール破り」「あまりに強すぎる隠し武器」「ゲームの数値的な能力の限界」などなど。
ゲームの「データベース」に触れたプレイヤーは、その世界の神の領域に侵入したともいえます。そうしたプレイヤーにとって、弱すぎるラスボスを含め、データベースの一部に過ぎない「物語」が瑣末なものに見えるのは、仕方がないかもしれません。また、これは日本のRPGの特徴でもある、「主人公たちのために世界がある」という世界観も影響しているかもしれませんが、これについてはいずれ。
■物語は「コンテンツ」のひとつに
ここで挙げたのは一般的なRPGですが、例えば「マルチエンディング」の場合はどうか? マルチエンディングはそれぞれゲームの主人公にとってはエンディングですが、プレイヤーにとってエンディング(物語の終わり)ではありません。それぞれのエンディングは物語を消費しているにすぎず、結局は真エンディングだけがプレイヤーにとっての終わりとなります。全てのエンディングを見ないでやめた場合、プレイヤーは亡霊のようにゲームに留まり続け、そこにタナトスもカタルシスもないでしょう。
それでは「強くてニューゲーム」はどうか? (周回プレイが前提となるマルチエンディングと重複する部分もありますが)そこでは、強すぎるキャラクターたちの前で物語は力を失っており、プレイヤーはゲームバランスという名の神の領域をはじめから侵しています。その超越感が個人的には好きなのですが。
海外のRPG、たとえばスカイリムはどうか? 根本から異なるため比較は難しいですが、主の物語と副の物語が混在するのが魅力である作品であり、終わらせることに力点は置かれていません。いちおうのラスボスを倒しても、たいして盛り上がらない状況下で、プレイヤー=主人公は、自身の存在と自身の物語が、この大きな世界の中ではちっぽけなものだと感じるでしょう。海外RPGとの比較は、別の機会があればまたしてみたいと思います。
モラトリアムやタナトスやカタルシスやデータベースといった、いかにもなキーワードを引っぱりだして書きましたが、要は「副菜が多すぎると主菜が美味しくない」。……余計に分かりにくいかもしれません。
こうして、RPGにおいてとりわけ重要だった「物語」は、いつしか「コンテンツ」のひとつに格下げされていきます。それは現在において、とくに「RPG」を冠したソーシャルゲームにおいても見られる傾向かもしれません。