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- “73年生まれ。インベーダーが日本中を侵略した頃、小学生だった筆者の目に映ったビデオゲームは間違いなく「未来へのパスポート」だった。その魅力に取り憑かれ、気づけば不惑の40代となったオッサンが、ビデオゲームと共に過ごした30年を語る連載。前回の記事はこちら。”
25歳背水の陣
はい、OKでーす。コントロールルームからの声が聴こえる。私は、活動していたバンド活動の次の一手として音源制作を行うことを決め、レコーディングに取り掛かっていた。25歳、高卒手に職ナシ。これで反響がなければ就職して真っ当に生きるか……。半ば背水の陣で取り組んだレコーディングだった。
セガあふれるゲーセンに俺歓喜
ゲームセンターでは『バーチャファイター3』が好評稼働中。セガサターン版で増えた『バーチャ』ファンも取り込み『バーチャ2』時代よりさらに活気があふれる店内。強いプレイヤーの立ち回りを見て連携や技を確認する。私は、相変わらずそんなに強くは無いが、覚えたことを実践で出来ると試合に負けてもそれだけで嬉しかった。使用キャラはラウだったので、相手の特定技をガードしてからの確定PPKやカウンターが入ったときのお手玉コンボ。特に連掌転身脚を決めてオーイェー! とラウが叫ぶのはとても爽快であった。
『バーチャファイター』シリーズの好調を受けて、ゲームセンターでは『ファイティングバイパーズ』『電脳戦機バーチャロン』『ラストブロンクス』『ゲットバス』『トップスケーター』『バーチャストライカー』『バーチャコップ』『ダイナマイト刑事』『セガラリー』などなど、セガのゲームであふれていた。この活況は私が中高生の頃、80年代に見たナムコのゲームで活況をていしていたゲームセンターの雰囲気によく似ていた。その時の雰囲気と違うのは、ゲーム筐体はアップライト、ゲームセンター店内も明るく、UFOキャッチャーやプリント倶楽部など女性や子どもも気軽に入店できる、アミューズメントパークとなっていたことであろうか。
大正義プレイステーション
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一方家庭用ゲーム機ではソニーのプレイステーションが大躍進を遂げていた。セガサターンに勢いがあったのは、『バーチャファイター2』リリース後の95年末から96年頃までだった。97年1月に『ファイナルファンタジーVII』がプレイステーションで発売されるや、スーパーファミコンで上質なJRPGに慣れ親しんだ層がなだれ込み、他にも『パラッパラッパー』など万人向けのタイトルがゲーマー以外の層にも浸透し、プレイステーションの時代がやってきていたのであった。
ゲーム業界が活気にあふれてくると、ゲームマスコミも賑わってくる。相次ぐゲーム雑誌の創刊は、ファミコン時代の専門誌創刊ラッシュを彷彿させるほどだった。次々と出てくる新しい情報、その中で見つけたのはパソコンゲーム『DIABLO』の情報だ。どの雑誌でも編集後記などを読んでいると“編集部で中毒者が続出”などの声が掲載されていた。パソコンを使ってオンラインのゲームかぁ……。家庭用ゲーム機を買うのですら食費を削り、節約してやっと購入していたぐらいだったのに、さすがにパソコンは無理だ。そう自分に言い聞かせるも、バンド活動にDTM(デスクトップミュージック)を活用して作曲とかにも使えるかもしれないと、パソコン導入の模索をはじめていた。
はじめてのパソコンは白いPC-9821
新宿の場外馬券場で換金を終え、秋葉原に私はいた。そう、パソコン購入の資金を競馬で獲得したのである。パソコンを購入したら、DTMとゲーム、そして最近流行りのインターネットが出来るようになるんだ! そう思いNECが独自OSから撤退することになり投げ売りされていたNECのPC-9821 V233を購入した。『ときめきメモリアル』で開眼したギャルゲーへの傾倒もあって、それまでのギャルゲー遺産が使えるNECのパソコンを選ぶも、この時代からパソコンゲームもWindwsに移行してくので、選択としては微妙どころか失敗していたのだがそんなことは全く関係なかった。自分のパソコンが手に入ったことが嬉しくて仕方なく、雑誌で知ったダイアルQ2の従量制プロパイダを使い、インターネットにはじめて接続したのもこの頃であった。
パソコンを手に入れ、インターネットに接続することにより、今まで以上にゲームの情報を知ることや他人とゲームのことを語る機会が増えた。インターネットでのチャットルームに入り浸り、ゲームの話をしたり、セガBBSなどでゲームの話を思う存分行っていた。パソコンを購入するきっかけのひとつだった『DIABLO』だったが、少し旬を逃したことやNEC製のパソコンを購入したことで動作の不安もあり、結局この時にはプレイをしなかった。
ネットの中に世界がある『ウルティマオンライン』の衝撃
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その後、仲良くなったチャットルームの仲間から、MMORPG『ウルティマオンライン』に誘われるようになった。プレイヤーがひとつの仮想世界に集まり、生活、冒険を行う。なんとも壮大なゲームの世界に足を踏み入れることになったのである。キャラメイクをして降り立ったブリタニアの大地。何をしていいのかサッパリ分からない。ICQで連絡を取りながら、チャット仲間と合流して、プレイのイロハを教えてもらう。私は鍛冶屋をやりたかったので、掘削のスキルや鍛冶のスキルをちまちまと上げていた。いわゆる生産系のキャラを作っていて、戦闘メインでなくても実際に生活するようにゲームの中で暮らせる。その自由度の高いゲームデザインに夢中になった。
当時のインターネットは、電話代がインターネットに接続している時間に比例してかかる従量制が主だった。それを回避するため、月額固定料金で、夜の23時から翌朝8時まで指定したふたつの電話番号に接続し放題になるサービス、テレホーダイを使いこの時間帯だけインターネットに接続するという生活を送っていた。『ウルティマオンライン』にハマってからは昼夜逆転の生活となってしまい、昼間のバイトをスッポかしてクビになったり、軽いネトゲ廃人になる始末であった。
ネトゲ廃人からの転落人生!?
これではダメだと眠い目をこすりながら、早朝日雇いのバイトに出勤するためバイクで通勤をしていると、私はとんでもない衝撃に襲われてそのまま記憶を失う。記憶が戻った時は救急車の中で横になっていた。交通事故を起こしてしまったのである。バンド活動もレコーディング後、ドラムが脱退し、プロモーション展開が停滞していたときに襲ってきた交通事故。『ウルティマオンライン』では順調に鍛冶屋への道を歩んでいたが、現実では押し寄せる年齢というタイムリミットと、先の見えない状態に、その日暮らしが出来る状態では無くなってきていた。