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『Spiritfarer』の物語は、神話の時代から渡し守を務めてきたカロンが、死後の世界を訪れたばかりの主人公ステラに仕事を引き継ぐ場面から始まります。カロンは引き渡しを済ませるとそのまま冥界に旅立ってしまいますが、あまり詳しくは語らないままでした。カロン自身はギリシャ神話の中ではあまり目立たない存在で、際だったエピソードも特に持っていません。それでも、生死の境を行き来する番人として様々な伝説のバイプレイヤー(助演者)として登場します。
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『Spiritfarer』はギリシャ神話における死後の世界をモチーフにしており、死者が最初に訪れる彼岸の大河スティクス(またはアケローンなど)が舞台です。河と言っても世界の水全体の一割が流れるほどで、ゲームでも外洋船が用いられる広大なもの。近代から現代、世界各国の地域が入り乱れ、神話の時代よりもワールドワイドに広がっているようです。スティクスの水には神通力が宿っており、英雄アキレウスは産湯代わりに川の水を浴びたため超人的な力を手に入れました。
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カロンは闇の神エレボスと夜の女神ニュクスの子で、原初の神々に名を連ねる一人です。兄姉には空の神アイテール、昼の女神へーメラーがいます。その姿はゲームに登場したのと同様、ぼろを纏った老人として描かれ、船は獣の皮を貼り合わせて作ったものです。
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カロンの役割はスティクスに辿り着いた魂を次の冥界に導くことで、1オボル(銀貨1枚)を渡せば連れて行ってもらえますが、持っていなかった場合は100年ないし200年もの間スティクスに留まらなければならないと言います。そのため日本の六文銭と同様に、死者を埋葬する時には銀貨を1枚口に入れていたそうです。オボル硬貨の大きさは約1センチと非常に小さく、常日頃から落とさないよう口に入れておくのが習慣でした。
その後ローマ帝国を通じて広く伝わり、キリスト教が浸透していない欧州の一部地域、中東ではこの風習が長く残りました。この埋葬法を指す考古学用語として「カロンのオボル」と正式に名付けられており、17世紀のポーランドで行われた形跡も確認されています。中国の冥幣など、故人が困らないようお金を用意する習慣は現在も世界各地にあり、ステラが乗せる人物達が持っていたオボル硬貨はそれらが両替されたものかもしれませんね。
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基本的には死者を運ぶカロンですが、どうしても冥界に行きたい生者を乗せてしまうことがあります。ギリシャにおける冥界行きの物語では必ず通過する場面になっており、止めようとするカロンをなんとかやり込めるのが一つの見せ場でもあるのです。
死んだ妻エウリディーケを連れ戻そうとする詩人オルフェウスの場合、自慢の竪琴を弾いて泣き落としを図ります。その音楽に甚く心を動かされたカロンは彼を船へ乗せてあげました。職務上線引きには厳しいカロンですが、やはり必死な人間には同情を禁じ得ないようです。
ヘラクレスはケルベロスを冥界から地上へ連れてこいと命じられ、船に乗せるようカロンに頼みますが、カロンはこれを拒否。すると、ヘラクレスはなんとカロンを力で脅して無理矢理連れて行かせました。
その後もカロンは復路で捕獲されたケルベロスを乗せ、また冥界に戻すのにもう一度運ばなければなりませんでした。さらに、この件で激怒したハデスに1年間投獄の罰を与えられるという散々な始末。他にも、硬貨を往復分の2枚を持って自殺、その後無事に生還したという話もあります。
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悠々自適な航海とは別に、ケルベロスと同様に番人の役割もあるので、ヘラクレスのような無茶な人間を止めるのはなかなかの激務になるでしょう。ステラはその場の勢いで渡し守の仕事を任されてしまいましたが、頼まれたら断れない彼女の性格からすると、生者に懇願されたら二つ返事ですぐ乗せてしまいそうです。冥界の住民との付き合いもあるでしょうから、カロンのように怒られないか心配ですね。
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心が決まった魂を連れていく「EVERGATE(永遠の門)」は、凪の水面が鏡のように景色を写し、乗客と語らう最期のひとときを静寂で包み込みます。門のデザインは円状の穴を水面で半分に割った形になっていますが、この形はギリシャ文字の「Ω」と解釈するもできます。「Ω」とはギリシャアルファベットの最後に当たる文字で、始まりの「Α」と同じように物事の一番最後を意味しています。
『Spiritfarer』では、魂達が現世でどのような死を迎えたのかは詳しく描かれません。その代わりに、彼らの心残りや楽しかった思い出、後悔を受け止め、その終わりを看取ることになります。ある意味ステラの仕事は終活コンサルタントで、空っぽになった船室をなかなか片付けられない渡し守もいるのでは? 身近な親類を送り出すステラのように、いつかプレイヤー自身にもこんな経験が巡ってくることでしょう。そのときあなたはどんな風に見送りたいですか?