90年代の前半のことだ。ゲーム雑誌あるいはテレビで、黒いスーツに身を包んだ長髪の巨漢の男がいた。その男はゲームクリエイターと名乗っていた。それが飯野賢治氏だった。
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当時はゲームクリエイターが業界外のメディアに出ることは珍しかった。『スーパーマリオ』シリーズや『ドラゴンクエスト』シリーズのようにタイトルが有名でも、宮本茂氏や堀井雄二氏といった作家側がテレビなどのメディアに露出することは少ない。そんななか、飯野氏が積極的にメディアに露出していたのは“異質”だった。
後に飯野氏の代表作である『Dの食卓』などを遊んでも、彼と同じく謎であり異質なゲームだった。2000年代にゲーム開発事業から離れてからも謎は続く。自販機での自動決済事業や、小説家・清涼院流水氏と共同で執筆した実験小説など、異質な活動は続いていた。
実像を捉えあぐねているうちに、突然の逝去の報が届いたのは2013年のことだった。彼が何者だったのかいまだに揺れている。しかし没後10年が経った今、関係者たちに話を聞くことで、これまでわからなかった実像がなんだったかわかるかもしれない。
今回、ArchipelとGame*Sparkは1年近くにわたり、生前の飯野氏と関係の深い人々に話をうかがった。その足並みはまるでアドベンチャーゲームの聞き込みみたいに彼の実像を探る日々だった。
既に12月15日から開催されている「Archipel Caravan 2023」ではドキュメンタリーの上映がスタートし、読者の一部には既にご覧になっている方もいるかもしれない。諸般の事情により連載のスタートが遅れてしまったが、映像の上映とあわせて予告していた連載も「飯野賢治とは何者だったのか?」と題して、出演者や映像には登場しない関係者の貴重なインタビューを元にテキストでお届けしていく。
記念すべき第1回は「怪物」、「花束みたいな恋をした」の脚本家・坂元裕二氏に彼の思い出を伺った。坂元氏は飯野氏と共に『リアルサウンド 風のリグレット』(以下、風のリグレット)などを制作していた。そこでは私たちが知らなかった飯野氏の姿と、坂元氏が人生で遭遇したある時期が語られた。
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「今の小島秀夫さんと同じ立場になれた人だと思う」
「天才だったと思うんですよ」坂元裕二氏は飯野氏についてそう振り返る。「……友人だから、引き合いに出すと申し訳ないけど、世界的に評価されている小島秀夫さんと同じ立場になれた人だと思います」
飯野氏はゲームクリエイターでありながら、ゲーム業界外の著名人たちとの交流が非常に多い人物でもあった。簡単に挙げるだけでも俳優の浅野忠信氏、電気グルーヴのピエール瀧氏、そして先日亡くなられた、音楽家の坂本龍一氏など。いずれも各分野の錚々たる人物だ。
90年代当時、人気トレンディドラマ「東京ラブストーリー」の脚本家として有名だった坂元氏との交流もまた、そうした関わりのひとつだった。
ただ坂元氏とは単なる交流に終わらなかった。飯野氏と共にゲームを作ることになるからだ。宇宙船にて、見えない敵から生き残るADV『エネミーゼロ』のセリフや、音だけの『風のリグレット』のシナリオのほか、『Dの食卓2』(以下、D2)のセリフのライティングなど、深く関わっていた。
とはいえ、なぜ坂元氏は飯野氏とゲーム開発をするようになったのだろうか?
「仕事で落ち込んで、朝起きたら寝るまでドラクエする期間がありました」
90年代の中期、初めて監督を務めた映画「ユーリ ЮЛИИ」を撮ったりした。それは一見すると作家としてより飛躍する活動をしているように見える。
――ところがそれは坂元氏のキャリアの躓きだった。
「当時、映画を一本作ったんですけど、何もできなくて、あまりに監督という仕事が向いてなかったんです」
想像以上に重い経験だったようだ。「やりたいことも目標も何もなくなって、毎日『スーパードンキーコング2』からはじまって、ひたすらゲームをする期間がありました。朝起きたらスイッチを入れて、寝るまでプレイするみたいな」
坂元氏は仕事で躓いた欠陥を埋めるように、ビデオゲームにのめりこんでいく。「もともと古い世代で学校帰りに『スペースインベーダー』をやっていたけど、家庭用のゲームは1996年までほとんどやってなかったんです。知らなかったからハマってしまったというか……。取り憑かれたように、一時期やっていました」
そう、坂元氏はコンスタントにテレビドラマなどの仕事しているイメージがあるが、キャリアをよく見ると1996年から2002年まで空白期間がある。どうやらその期間にビデオゲームに関わることになったのだ。ただそのきっかけには、誰の人生にも少なくなく訪れる、モラトリアムを埋めるようにビデオゲームを遊んでいたことがあった。
「とにかく脚本を書くのも嫌になっていました」仕事から離れ、ずっとゲームを遊び続ける。坂元氏は暗澹とした楽しみの最中にいた。そんな渦中にてキャリアを変える出会いがあった。プレイステーションも購入し、他のゲームを探すなか、あの『Dの食卓』をプレイした。それがまさかの分岐点となった。
「ちょうどプレイステーションの雑誌の編集長が僕の知り合いで、『僕、最近はゲームばっかりやってるんですよ。『Dの食卓』とか面白かったです』って話をしたんです。すると『飯野さんと対談してみませんか?』みたいな話をされて――」
そうして坂元氏は恵比寿のWARP本社を訪れ、初めて飯野氏と出会う。「対談というか、基本的に僕がインタビューするみたいな感じでいろんなお話を伺ったんです」
「何を聞いたかはまったく覚えてないんですけど、たしか『Dの食卓』は映画的な作品だったから、どういう発想の順序で作ったか聞いたと思います。それまでファミコンの『スーパーマリオ』みたいなゲームばっかりだったので、ムービーに入っていくみたいな仕様を新鮮に感じました。『飯野さんのオリジナルですか? それとも参照したものがあるんですか?』みたいなことを聞いたのは覚えています」
「その時に飯野さんが波長が合うと思ったのかわからないですけど、後日、連絡が来たんです」坂元氏はそう振り返る。
実際に飯野氏も坂元氏にすごく良い印象を抱いていたようだ。彼は後に自身のブログでこう書いている。
「会って、いろいろとお話をしてみてすごくいい人だったので、彼と仕事がしたい」
その後、飯野氏は坂元氏に連絡を取り直したときをこう振り返っている。
「連絡を取ったらドラマの脚本を書いていて、ホテルに缶詰になっていた」
「ホテルにずっと1人じゃ寂しいだろうと思ってお風呂で遊ぶおもちゃを、いっぱい持っていったんだよね。ポンプ式でぴょんぴょん跳ねるカエルとか。黄色いアヒルのおもちゃとか。山ほど。それがきっかけで、すごく仲良くなった」(同ブログより)
飯野氏はその流れで坂元氏にこう頼んだことを、自著に記している。「そのときになって僕ははじめて彼に『エネミー・ゼロ』のシナリオのセリフと、今度やる予定の『リアルサウンド』の脚本を書いてくれないか』っていう話をしたんだ」
「そうしたら、即その場で『やれる!』『やりたい!』という話になって、ひじょうに盛り上がってね」(※1)こうして坂元氏は飯野氏から仕事を請け負うかたちで、突如としてゲームを遊ぶ側から作る側へ転向することになる。